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東京地方裁判所 昭和45年(ワ)12716号 判決 1981年4月20日

原告

武内孝子

右訴訟代理人

中條秀雄

被告

学校法人慈恵大学

右代表者理事長

樋口一成

右訴訟代理人

大塚仲

外二名

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金一五〇〇万円及びこれに対する昭和四六年一月二六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  原告は神戸女子薬学大学を卒業し、昭和四二年二月二〇日薬剤師の免許(登録番号第一〇五一〇九号)を受けた後、同年五月八日被告大学に技手として採用され同大学医化学研究室に勤務していた。

2  原告が従事した実験について

(一) 原告は、昭和四二年九月ころから同四三年二月ころまでの間(以下「本件期間」という)、被告大学医化学研究室(指導教授牧野堅)において主としてビタミンB1誘導体及びビルジン系化合物の合成実験に従事したが、右有機合成実験により生成する反応生成物の分析と精製のためペーパークロマト実験を行つた。

(二) ペーパークロマト実験の手順

原告がペーパークロマト実験を行う場合の手順は次のとおりである。

ペーパークロマト実験を行おうとする日の午後四時ころからペーパークロマト実験に用いる溶媒を作成し、これを直径約二〇センチメートルのシャーレに深さ約一センチメートルまで入れる。次に、四〇センチメートル四方のろ紙に検体(反応生成物)を付着せしめたものを円筒状に丸めセロテープでとめたうえ、溶媒を入れたシャーレに立てガラス容器の中に密閉する。以上の操作を午後五時ころまでに終了し、この段階で原告は帰宅し、翌日午前九時ころ出勤してシャーレ内の溶媒を吸収したろ紙をガラス容器の中から取り出して広げたうえ、実験室内の机に画鋲でとめ、ろ紙を自然乾燥させる。

(三) ペーパークロマト実験に用いた溶媒について

原告は、ペーパークロマト実験に用いる溶媒については被告大学医化学研究室教授牧野堅の指示を受け、昭和四二年一〇月以降は二種類(ベンゼンを含むものと含まないもの)の溶媒を同時に用いてペーパークロマト実験を行つたが、右二種類のうちベンゼンを含有する溶媒はメタノール、n−ブタノール、ベンゼン一、水一の割合で作られ、ベンゼンの一回当り使用量は約五〇ミリリットルであつた。

(四) ベンゼンを含有する溶媒を用いたペーパークロマト実験の頻度

ペーパークロマト実験は、有機合成実験の結果生成した反応生成物を分析し、右分析の結果を参考にさらに有機合成実験を行いその実験の所期の目的である反応生成物を得るために行われるが、右実験の所期の目的である反応生成物を得るまでに、合成とペーパークロマト実験による分析の操作は三、四日間連続して繰り返されることもあり、原告は本件期間中ベンゼンを含有する溶媒を用いて多数回ペーパークロマト実験を行つた。

(五) 実験室の状況

原告がペーパークロマト実験を行つた実験室の気積は約72.06立方メートルであるが、うち戸棚・机等の占める体積が約一六立方メートルであるから、空間の気積は約五六立方メートルであり、右実験室には上・中・下段各三枚合計九枚の窓があるが中段の窓ははめごろしであり、上・下段各三枚の開放可能な窓も下段の窓の内、原告のいる場所に最も近い一枚はガラス繊維製のカーテンを窓枠に固定しているため開放が不可能であり、その他の窓もその開放は不完全にしかできず、そのうえ換気扇が設置されていなかつたため右実験室の換気性は劣悪であつた。

(六) 原告のベンゼン吸引について

原告は、ベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行う過程において、溶媒を作りこれをシャーレに入れこの中にろ紙を立てる操作及び溶媒を吸収したろ紙をガラス容器の中から取り出す操作等を行う際、ベンゼン発生源の間近において高濃度のベンゼンガスを吸引するとともに、ろ紙の自然乾燥には約三時間半を要するため、これを待つ間に実験室内に拡散したベンゼンガスを吸引した。

3  原告の罹病とその経過

原告は、請求原因2記載の実験に従事する以前は健康体であつたが、昭和四三年二月六日の昼食後に激しい腹痛を起こしておう吐したのを初めとして、三月ころにも昼食後同様の症状を呈した。その後も同年五月末ころまで気分が悪く、歯をみがいた時などに歯ぐきから出血しこれが一時間程も続くことがあり、同年六月初めになると、足が痛み手足がしびれて皮膚感覚に異常を感ずるようになり、このため同月二八日慈恵会医科大学附属病院上田内科に検査のため入院した。右入院時の血液検査の結果は血液一立方ミリメートル中白血球数六二〇〇個、赤血球数四四六万個(以下単に「白血球数」「赤血球数」という)であり、入院中も腹痛、頭痛、動悸、手足のしびれ等を感ずることが多かつた。

原告は、右入院中種々の検査を受けた結果、同病院山本寛八郎医師より、変形性脊椎症、遊走腎、低血圧症、胃下垂、自律神経失調症の各診断が下され、そのほか診断書には記載されなかつたが、神経症が認められるとの診断及び貧血があるので太ることが大切である旨の注意を受け、同年七月二二日に一たん退院したものの、自宅で寝たままの状態が続いた。

同年八月になると立ちくらみがひどく、一人で歩行することが困難となつたため、同月一二日に前記病院に再び入院した。右再入院時の血液検査の結果は白血球数三六〇〇個、赤血球数三一〇万個であり、成人女子の白血球数の平均値が七〇〇〇個、赤血球数の平均値が四五〇万個であるのに比べ、いずれも著しい減少傾向を示していた。

右再入院中は頻繁な血液検査、胸骨骨髄穿刺等種々の検査を受け、胸骨骨髄穿刺液所見によれば造血機能に異常が認められた。

その後、再入院中の治療の効果もあつて症状はやや快方に向い、昭和四四年五月一七日前記病院を退院したが、全快は望み得ず、毎月血液検査を要する貧血、全身の倦怠感が現在まで継続し、このため就労は不可能な状態にあり、今後ともその回復を期待することはできない。

4  ペーパークロマト実験と原告の罹病との因果関係

(一) 慢性ベンゼン中毒症状

ベンゼンガスの吸引を継続していると、白血球及び赤血球の減少を顕著な症状とする慢性ベンゼン中毒症状に至るものとされている。

(二) しかるところ、原告は請求原因2記載のとおり、本件期間中被告大学医化学研究室においてベンゼンを含有する溶媒を用いたペーパークロマト実験を多数回にわたつて行つたため継続的にベンゼンガスを吸引し、その結果請求原因3記載のとおり、昭和四三年八月一二日の血液検査結果に顕著に認められるように白血球、赤血球の減少をきたし、これに腹痛、おう吐、歯ぐきからの出血傾向、手足のしびれ、皮膚感覚の異常、全身の倦怠感等の諸症状を併発するに至つたものである。

(三) 原告はベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行う以前は健康体であつたにもかかわらず、右実験従事後に罹病しているのであり、また原告の昭和四三年八月一二日に血液検査の結果は、白血球数三六〇〇個、赤血球数三一〇万個で慢性ベンゼン中毒症状の顕著な症状である白血球、赤血球の減少症状を示しているのであつて、これらの事実はベンゼンを含有する溶媒を用いたペーパークロマト実験と原告の罹病との間の因果関係を推定させるものである。

5  被告大学の責任

被告大学は、労働契約上の義務として、その使用する労働者が就業により生命や健康を損なうことのないよう職場の安全及び衛生に必要な注意を払うべき義務を負うものである。とりわけ、ベンゼンのような身体に対して毒性を有する有機溶剤を取扱う実験にその職員を従事させるについては、これに起因する慢性ベンゼン中毒症状の発生を未然に防止するために次のような配慮が必要であつたといわなければならない。

(一) 乾燥用ガラスケース(ドラフト)を設置するなどベンゼンガスの発生源を密閉する設備を設ける。

(二) ベンゼンガスの堆積する実験室下層部に換気扇を設置するなど局所排気装置を設ける。

(三) 防毒マスク(黒)などベンゼンガスの吸引を防止するのに必要な用具を備え、実験従事者にこれを使用させる。

(四) 以上のほか、実験従事者に定期健康診断(血液検査を含む)を実施することにより、ベンゼンガスの吸引による身体的異常を早期に発見し、早期治療及び罹患後の業務内容の変更を速やかに行う。

しかるに、被告大学は以上のような措置を何ら講ずることなく、原告による換気扇設置の要望すら拒否したまま原告をしてベンゼンを含有する溶媒を用いたペーパークロマト実験に従事させ、前記のような罹病に至らせたものであつて、被告大学は原告に対し労働契約上の債務不履行責任に基づき、原告が被つた後記損害を賠償する責任がある。

6  損害

(一) 昭和四四年一月一日から同年六月末日までの逸失利益

金一一万三四六〇円

原告の賃金は昭和四四年一月一日以降三月末日までは月額金三万四一一〇円、同年四月一日以降六月末日までは月額金三万八九一〇円であつたから、同年一月一日以降六月末日までの原告の得べかりし賃金は合計金二一万九〇六〇円となるところ、右金額から右期間中に原告が被告大学より現実に給付を受けた金一〇万五六〇〇円(昭和四四年一月一日以降同年三月末日までは月額金一万六四〇〇円、同年四月一日以降同年六月末日までは月額金一万八八〇〇円の割合により給付を受けた合計額)を控除すれば金一一万三四六〇円となる。

(二) 昭和四四年七月一日以降の逸失利益  金四八三〇万六一六七円

原告は、被告大学の本件違法行為により就労不能となつたため、昭和四四年七月一日以降全く賃金の給付を受けることができなくなり同月四日被告大学を退職したのであるが、右退職当時、原告は満二五歳の女子であつたから、被告大学の違法行為がなければ昭和四四年七月一日以降も満六二歳に達するまで三七年間(昭和八〇年一二月末日まで)、次のとおり賃金及び賞与を取得することができた。

(1) 賃金

原告の賃金は昭和四四年七月一日当時月額三万七六〇〇円であつたが、同四五年四月一日には月額金四万二〇〇〇円に昇給し、以後毎年四月一日に月額金六〇〇〇円の割合により昇給するものとして算定する。

(2) 賞与

昭和四五年以降毎年賃金(ただし当該年の四月一日以降の賃金)の五か月に相当する金額。

以上によつて算定した賃金及び賞与の合計額からホフマン式計算法により年五分の割合による中間利息を控除すれば、昭和四四年七月一日以降に原告が得ることのできた賃金及び賞与の合計額は金四八三〇万六一六七円となる。

7  よつて、原告は被告大学に対し、右損害額合計金四八四一万九六二七円の内金一五〇〇万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日である昭和四六年一月二六日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張<以下、事実省略>

理由

一請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二原告が従事した実験(請求原因2の事実)について

1  請求原因2の(一)の事実中、原告が本件期間中被告大学医化学研究室(指導教授牧野堅)において、有機合成実験(その内容は後記認定のとおり)に従事し、右実験により生成する反応生成物の分析と精製のためにペーパークロマト実験を行つたことは当事者間に争いがない。そして、<証拠>によれば、原告が従事した右有機合成実験は、別紙説明書<証拠>記載のとおりビタミンB1塩酸塩のチアゾール部分のアルコールを臭素で置き換えブロームビタミンB1としたものに、ヂメチールアミノエタノールアセテートを縮合させる実験であると認められ(<証拠判断略>)、その際原告が行つた前記ペーパークロマト実験の手順が請求原因2の(二)記載のとおりであることは当事者間に争いがない。

なお、<証拠>中には、原告が右実験に従事したのは本件期間中昭和四二年九月と昭和四三年二月に集中している旨の供述部分があるが、<証拠>に照らし採用できない。

2  ペーパークロマト実験に用いた溶媒(請求原因2の(三)の事実)について

<証拠>によれば、ペーパークロマト実験に用いる溶媒はベンゼンを含有する溶媒のほか三種類あり、原告がペーパークロマト実験を行う場合、ベンゼンを含有する溶媒を用いて行うこともあつたが、むしろイソブタノール・酢酸・水を混合した溶媒のみを用いて行つた場合の方が多かつたものと認められる。<以下、中略>

3  ベンゼンを含有する溶媒を用いたペーパークロマト実験の頻度(請求原因2の(四)の事実)について

<証拠>を総合すれば、ペーパークロマト実験は別紙説明書記載の実験中第一操作及び第三操作により生成した反応生成物の分析と精製のために行うものであるところ、原告は右各操作にそれぞれ七、八日間を要していたこと、右各操作が失敗し反応生成物を得られない場合もあつたことが認められる。

右認定事実に、前記認定のとおり原告がペーパークロマト実験を行う場合は必ずしもベンゼンを含有する溶媒のみを用いて行うものではなく、むしろイソブタノール・酢酸・水を混合した溶媒を用いて行つた場合の方が多かつたこと、<証拠>のメモに原告がペーパークロマト実験を行つた旨の記載があるのは本件期間中多い時でも月一〇回を超えず、ベンゼンを含有する溶媒を用いたことが明らかな記載は本件期間を通じて五回にすぎないことを総合して判断すると、原告がベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行つた頻度は、本件期間中、月に数回を超えることはなかつたと認められ<る。>

4  実験室の状況(請求原因2の(五)の事実)について

<証拠>総合すれば、原告がペーパークロマト実験を行つた実験室の気積は約111.097立方メートル(ただし戸棚・机等の占める体積を考慮しない場合)を下回わることはないのであり、換気扇は設置されていないが、開放可能な窓が五枚、廊下に通ずるドアが一箇所、隣室に通ずるドアが二箇所設置されていることが認められ<る。>

5  原告のベンゼン吸引(請求原因2の(六)の事実)について

<証拠>を総合すれば、原告はベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行う過程において、溶媒を作りこれをシャーレに入れこの中にろ紙を立てる操作及び溶媒を吸収したろ紙をガラス容器の中から取り出す操作等を行うに際し、ベンゼンガス発生源の間近において相当濃い度のベンゼンガスを吸引したことが認められるが、右吸引は右各操作を行う際の極めて短時間にすぎないものと認められる。

次に、溶媒を吸収したろ紙を実験室内の机に画鋲でとめその自然乾燥を待つ間における実験室内に拡散したペンゼンガスの吸引の状況について検討するに、鑑定人久保田重孝の鑑定結果に前記認定にかかる実験室の気積を合わせ考えると、ベンゼンを含有する溶媒を用いて本件とほぼ同様の手順によりペーパークロマト実験を行つた場合、ろ紙に付着する溶媒の量は約47.5ミリリットルであり、右溶媒中のベンゼンが一時に全部実験室内に平等に分布して発散しかつ実験室が完全密閉の状態であると仮定した場合、気積約111.097立方メートルの実験室におけるベンゼンの気中濃度は、原告主張にかかる戸棚・机等の体積を右実験室の気積から除いたとしても約27.52PPMであること及びベンゼンの気化には約三〇分間を要し、対空気比重の大きいベンゼンガスは最初床面に濃厚に分布することが認められる。

そして、<証拠>によれば、ペーパークロマト実験に用いる溶媒中の有機溶剤は約三〇分で気化するが水分の蒸発を待つためろ紙の自然乾燥には約二時間ないし三時間を要するところ、その間原告は、試薬の調整、器具等の清浄を行いながら実験室内においてペーパークロマト実験の結果を観察していることが多かつたものの、掃除又は教材の準備などを行うため実験室から出ることもあつたことが認められる。

右認定の事実に前記認定の実験室の状況を合わせ考えれば、原告が右実験中、溶媒を吸収したろ紙の自然乾燥を待つ約二時間ないし三時間に吸引したべンゼンガスの濃度は27.52PPMをかなりの程度下回るものであつたと認めるのが相当である。

三原告の罹病とその経過

<証拠>を総合すれば次の事実を認めることができ<る。>

原告は、昭和三九年ころに罹患した低血圧症、低カリウム血症、遊走腎の既応症を有するが、前記認定の実験に従事するころはおおむね健康体であり、右実験従事中の昭和四三年二月六日ころ昼食後に激しい腹痛を感じておう吐し、三月ころにも昼食後に同様の症状を呈した。その後も五月末ころまで気分が悪く、歯をみがいた時などに歯ぐきから出血しこれが一時間程も続くことがあり、六月初めになると、足が痛み、手足がしびれ、皮膚感覚に異常を感ずるようになつたため、同月二八日慈恵会医科大学附属病院に検査のため入院するに至つた(右入院の事実は当事者間に争いがない)。

右入院時には血液検査が行われ、その結果は白血球数六二〇〇個、赤血球数四四六万個であり(この事実は当事者間に争いがない)、右数値は、成立に争いのない乙第五号証により認められるとおり、成人女子の白血球数の平均値が六七〇〇個、赤血球数が約四三〇万個、正常範囲が白血球数約五〇〇〇個ないし八四〇〇個、赤血球数が三八〇万個ないし四八〇万個である事実に照らせば正常範囲内の数値であり、ただヘモグロビン及び血色素計数がやや低く、全体的にやや貧血傾向にあることが認められた。

前記入院中も、原告は腹痛、頭痛、動悸、手足のしびれ等を感じることがあり、種々の検査、治療が行われた結果、前記病院山本寛八郎医師より変形脊椎症、遊走腎、低血圧症、胃下垂、自律神経失調症の各診断及びそのほかに神経症状が認められる旨の診断を受けたが(右診断結果は当事者間に争いがない)、右診断結果中には慢性ベンゼン中毒症状を疑わせる症状はなく、同年七月二二日右病院を退院して自宅で療養を続けていた。

ところが、同年八月になると立ちくらみがひどく、一人で歩行することが困難となつたため、同月一二日に前記病院に再入院した。右再入院の際、主治医の宮島健昭医師は原告よりベンゼン中毒の主訴があつたことから右主訴を前提に検査を行つたところ、入院当初の八月一二日の血液検査の結果は白血球数三六〇〇個、赤血球数三四四万個であり、これは前記認定の成人女子における血球数の平均値、正常範囲に照らし減少傾向を示すものであり、ほかに軽度の貧血も認められたが、その後継続して行われた血液検査の結果では、数値に多少の変動はあるものの白血球数は四〇〇〇個ないし五五〇〇個、赤血球数は四〇〇万個前後であつて、おおむね正常値ないし正常下限値を示すようになり、また胸骨骨髄穿刺液所見においても造血機能に異常は認められなかつたことなどから、同医師は、諸検査の結果を総合しても原告には慢性ベンゼン中毒症状を疑わしめる症状は認められないと判断した。

その後原告は、入院中の治療の効果もあつて症状はやや快方に向い、昭和四四年五月一七日前記病院を退院したが、現在に至るまで全身の倦怠感は継続し、なお通院による治療を必要とする状態にある。

四ペーパークロマト実験と原告の罹病との因果関係(請求原因4の事実)について

1  慢性ベンゼン中毒症状(請求原因4の(一)の事実)について

請求原因4の(一)の事実は当事者間に争いがなく、この事実に<証拠>を総合すれば次の事実を認めることができ<る。>

慢性ベンゼン中毒症状は、ベンゼンガスを継続的に吸引することにより発症し、骨髄機能(造血機能)に障害をきたすことが特徴である。その顕著な症状白血球、赤血球、血小板の減少、貧血等の血液障害であり、重症の場合には白血病、再生不良性貧血を起こすものとされる。労働省は、労働基準法施行規則第三五条二七号(昭和五三年三月一〇日改正以前のもの)に掲げる「ベンゼン又はその同族体に因る中毒」の認定基準につき昭和三四年一月二三日付け通達(基発第四四号)を発し、次いで昭和三九年九月八日付け通達(基発第一〇四九号)を発し右を一部改正し次の要件をもつて慢性ベンゼン中毒症状の認定要件としている。

(一)  ベンゼン又はその同族体(例えばトルエン、キシレン)にさらされる業務(以下単に「業務」という。)に従事しているか又はその業務から離れて後おおむね六か月未満である者につき次の(イ)ないし(ニ)のいずれかに該当する症状を呈した者であること。

(イ) 血液一立方ミリメートル中赤血球数が常時(「常時」とは日を改めて数日以内に二回以上測定した値に大きな差を認めないものをいう。)男子四〇〇万個、女子三五〇万個未満であるか若しくは全血比重が男子1.052、女子1.049未満であるか又は血色素量が血液一デシリットル中男子12.0グラム、女子10.5グラム未満であつて、これらの貧血徴候の主原因が鉤虫症若しくは出血(例えば消化菅潰瘍、痔核等による)その他の事由によるものではないこと。

(ロ) 血液一立方ミリメートル中白血球数が常時四〇〇〇個未満であること。

(ハ) 鼻出血、歯肉出血、その他皮膚及び粘膜における出血傾向等があつて、著しく血小板が減少していること。

(ニ) その他ベンゼン又はその同族体の作用により著しい精神、神経症状を起こし療養を要すると医学上認められるものであること。

(二)  業務によりベンゼン又はその同族体に起因する白血病、汎血球減少症又は再生不良性貧血に罹患したことが明らかに認められるものであること。

これらの血液障害は、一般にはベンゼン吸引を中止すれば速やかに回復し、吸引中止の時点で変化がなくて中止後数か月以上を経て後に変化が初発したり中止後増悪することは一般には考えられない(ただし、ベンゼン吸引による白血病、再生不良性貧血はこの限りではない。)。

そして、慢性ベンゼン中毒症状の診断に当たつては、自覚症状、血液障害等の他覚的検査のほかに、職歴並びに職種、作業内容、作業場の空気中のベンゼン濃度等を判断資料とすべきものとされている。

2  以上の認定を前提として、原告のベンゼンガス吸引と罹病との因果関係について判断する。

(一)  まず原告が従事した実験が慢性ベンゼン中毒症状を惹起する可能性について検討する。原告が前記認定の実験に従事した際、その実験操作の過程においてベンゼンガス発生源の間近において相当高濃度のベンゼンガスを吸引することがあつたこと、また更に溶媒を吸収したろ紙の自然乾燥を待つ約二時間ないし三時間の間にもベンゼンガスを吸引することがあつたことは前記認定のとおりである。しかしながら、既に認定したとおり、原告がベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行つた頻度は本件期間中一か月に数回を超えるものでなく、また右高濃度のベンゼンガス吸引の機会は実験操作中の極めて短時間に限られており、更にろ紙乾燥中におけるベンゼンガス吸引は27.52PPMをかなりの程度下回る濃度にしかすぎなかつたのであつて、この事実に前掲乙第六号証によつて認められるとおり、慢性ベンゼン中毒症状の発生が顕著に認められる作業場のベンゼン気中濃度が一〇〇ないし四〇〇PPMであつたこと及び産業衛生協会が採用しているベンゼン許容濃度が二五PPMであることを考え合わせれば、原告が前記実験中に吸引したベンゼンガスが慢性ベンゼン中毒症状を惹起させる可能性は極めて小さいものであつたといわざるを得ない。

なお、<証拠>によれば、原告は被告大学医化学研究室において、昭和四二年五月ころから同年九月ころまでの間にもペーパークロマト実験を行なつていたことが認められるが、この期間中は本件期間に比してベンゼンを含有する溶媒を用いた頻度が小さいことは原告の自認するところであるから、右期間中におけるベンゼンガスの吸引を加味しても、この事実は前記認定を左右するものとは認め難い。

(二)  ところで原告は、原告がベンゼンを含有その溶媒を用いてペーパークロマト実験を行う以前は健康体であつたにもかかわらず、右実験従事後に罹病したことから、原告のベンゼンガス吸引と罹病との間の因果関係を推定することができる旨を主張する。

原告の罹病とその経過については前記三に認定したとおりであつて、なるほど原告は、ベンゼンを含有する溶媒を用いてペーパークロマト実験を行うころはおおむね健康体であつたが、昭和四三年八月一二日の血液検査の結果によれば白血球数は三六〇〇個、赤血球数は三四四万個で成人女子の血球数の平均値、正常範囲に比べ減少傾向を示している。しかしながら、既に認定したとおり、慢性ベンゼン中毒症状は骨髄機能(造血機能)に障害をきたすことに特徴があるが、原告の胸骨骨髄穿刺液所見によつても原告の造血機能に異常は認められず、またベンゼン吸引中止後約四か月後である昭和四二年六月二八日の原告の血液検査の結果は白血球数六二〇〇個、赤血球数四四六万個であつていずれも正常範囲内の数値を示しており、慢性ベンゼン中毒症状としての血液障害が一般にはベンゼン吸引を中止すれば速やかに回復し、吸引中止後数か月を経た後に変化が初発したり中止後増悪することは一般には考えられないことに照らすと、昭和四三年八月一二日の血液検査における前記血球数の減少がベンゼン吸引に起因するものとはにわかに考えられず、更に昭和四二年八月一二日以降も継続して行われた原告の血液検査の結果によれば、数値に多少の変動はあるものの白血球数は四〇〇〇個ないし五五〇〇個、赤血球数は四〇〇万個前後であつておおむね正常値ないし正常下限値を示しており、前記労働省通達の認定基準に照らしても慢性ベンゼン中毒症状を疑わしめるものではない。

(三)  もつとも、前掲甲第五号証中の検査報告書の検査申込欄の臨床診断名中には慈恵会医科大学附属病院宮島健昭医師による「ベンゼン中毒」なる記載が弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲第七号の五の越川医院越川医師作成にかかる診断書中には「病名ベンゼン後遺症における貧血及び神経炎」なる記載が、証人中村季秋の証言により真正に成立したものと認められる甲第一〇号証の一の日本赤十字医療センター整形外科中村季秋医師作成の診断書中には「傷病名低血圧、左半身神経障害(ベンゼン中毒後遺症疑)」なる記載がそれぞれなされているので、以下右各記載について検討する。

(1) 甲第五号証について

証人宮島健昭の証言によれば、甲第五号証中の検査報告書の検査申込欄の前記臨床診断名の記載者である同証人は、原告が昭和四三年八月一二日慈恵会医科大学附属病院に再入院した後九月頃まで原告の主治医であつたが、右再入院の際に原告から慢性ベンゼン中毒の主訴を受けたことから右主訴を前提に検査を行つたものの、諸検査の結果によつても原告には慢性ベンゼン中毒症状を疑わしめる症状は認められなかつたというのであつて、右証言及び前掲甲第四、第五号証に照らせば、甲第五号証中の検査報告書の検査申込欄の臨床診断名中の前記記載は、検査初期の段階で原告の主訴が記載されたものにすぎず、右記載は何ら他覚的科学的検査結果に基づくものではないというべきである。

(2) 甲第七号証の五について

甲第七号証の五の記載自体から明らかなように、越川将医師は原告のベンゼン吸引中止後約八年一〇か月を経た昭和五〇年一二月二九日に初めて原告を診察し診断を下しているのであるが、先に認定したとおり慢性ベンゼン中毒症状としての血液障害は、一般にはベンゼン吸引を中止すれば速やかに回復し、吸引中止後数か月以上を経て後に変化が初発したり中止後増悪することは一般には考えられないのであるから、右診断結果である甲第七号証の五の前記病名の記載はこれを採用することはできない。

(3) 甲第一〇号証の一について

証人中村季秋の証言によれば、同証人が甲第一〇号証の一の前記記載をするに当たつて原告を診断したのは原告のベンゼン吸引中止後約一一年を経た昭和五三年三月二七日の一回だけであり、しかも右診察の際の検査内容は血圧測定、知覚検査にとどまり、前記記載は何ら他覚的所見に基づくものではなく原告の訴える病歴のみを判断資料として記載したものにすぎないことが認められるので、右記載は原告が慢性ベンゼン中毒症状であるとの科学的所見を意味するものではないことが明らかである。

(四)  以上のとおりであつて、原告がベンゼン中毒に罹患していることはこれを認めるに足りる証拠がなく、また原告が本件実験従事後に前記認定のような症状を呈しはじめたからといつて、その一事から右症状と原告のベンゼンガスの吸引との間に因果関係を認めることはできないといわなければならない。

五よつて、原告の本件請求は、その余の点につき判断するまでもなく理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(丹野益男 大内俊身 綿引万里子)

説明書<省略>

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